ドイツの52型蒸機は、1939年に戦時型として誕生した50型をさらに簡素化して生まれた究極の戦時型機関車で、1944年から本格的な量産が始まりました。計画輛数はなんと30,000輛! 実際に戦争中に完成したのは6,000輛余りでしたが、我が国のD52が492輛を計画して285輛の製造にとどまったことと比較すると、文字通り桁が違います。それでもドイツはアメリカの工業力にかなわなかったわけで、日本がどれだけ無謀な戦争を戦ったかと思うと語る言葉もありません。
ドイツの占領下だったポーランドでも52型は製造され、戦後はPKP(ポーランド国鉄)のTy2型となって、ポーランド製のTy42型と合わせて1,400輛余りがポーランド各地で活躍したそうです。
ヴォルシュティンの2日目は、昨日より一駅ポズナニ寄りのロスタジェボまで行ってみました。この日は曇り空でモノクロでの撮影になりましたが、駅近くの林で汽車を待つことにしました。ポーランドやドイツの複雑な歴史を知ってか知らずか、完全燃焼の薄い煙を吐きながらTy2型が2階建て客車を牽引してやって来ました。ポーランドが東側陣営だった時代から、さして変わっていないと思わせるその姿は、曇りの日のモノクロ写真にこそ似合う格好の被写体でした。
私が会えたポーランドの蒸機はここまでですが、もう数年早く来ていれば、01や03を含めもっと多くの蒸機を見ることができたであろうと、いつもの繰り言が脳裏をよぎってしまうのでした。
(1994.5.25 ロスタジェボ Rostarzewo)
ドイツの占領下だったポーランドでも52型は製造され、戦後はPKP(ポーランド国鉄)のTy2型となって、ポーランド製のTy42型と合わせて1,400輛余りがポーランド各地で活躍したそうです。
ヴォルシュティンの2日目は、昨日より一駅ポズナニ寄りのロスタジェボまで行ってみました。この日は曇り空でモノクロでの撮影になりましたが、駅近くの林で汽車を待つことにしました。ポーランドやドイツの複雑な歴史を知ってか知らずか、完全燃焼の薄い煙を吐きながらTy2型が2階建て客車を牽引してやって来ました。ポーランドが東側陣営だった時代から、さして変わっていないと思わせるその姿は、曇りの日のモノクロ写真にこそ似合う格好の被写体でした。
私が会えたポーランドの蒸機はここまでですが、もう数年早く来ていれば、01や03を含めもっと多くの蒸機を見ることができたであろうと、いつもの繰り言が脳裏をよぎってしまうのでした。
(1994.5.25 ロスタジェボ Rostarzewo)
1994.5.16
・バーリの朝
・イタリアの片隅で
1994.5.22
・クラクフのこと
1994.5.24
・ヴォルシュティンの朝
・初夏の小駅
1994.5.25
・52の残党
1994.5.26
・ポズナニの印象
1994.5.28
・ハルツの蒸機
・ハルツの99
1994.5.29
・杉木立
1994.5.30
・天上の楽園ブロッケン、しかし
1994.5.31
・ポツダムのトラム
1994.6.3
・オスロのジャンプ台