大糸線の旧型国電
 高校一年の夏休み、大糸線、飯田線などの撮影に出かけました。旅行の詳しい経緯などは、ほとんど忘れてしまいました。それでも、残された下手くそな写真を見ていると、当時のローカル国電の雰囲気が懐かしく思い出されます。

 この頃、大糸線ではスカイブルーの旧型国電が最後の活躍をしていて、その姿を撮りたくて出かけたのだと思います。景色のいい場所はいくらもあるというのに、豊科の手前の田圃の中で、鉛筆転がしのような写真を撮っただけで済ませています。全く不甲斐ない限りです。走りの写真も形式写真も、もっとしっかり撮っておきたかったと思うことしきりです。

 しかし、怪我の功名とでも言うのでしょうか、サイドから撮った写真で車輛の窓配置などを見てみると、一癖も二癖もある個性に富んだ車輛たちが、大糸線に集っていたことが分かります。この4輛編成の電車について、1輛ずつ見てみたいと思います。

     クモハ43810
クモハ43810
 ノーシル・ノーヘッダー、二扉、広窓、半流、低屋根という特徴的なスタイルで、すぐに車輛を特定できます。有名な流電、モハ52の増備車として1937(昭和12)年に登場し、「合の子」と呼ばれた急行電車の三等電動車、モハ43039が出自です。関西省電のエースとしてデビューしながら、戦争の波に呑み込まれてしまい、華々しく活躍した期間は思いのほか短かかったようです。戦後は阪和線、飯田線、身延線と流転を重ね、身延線に転属する際に低屋根に改造されて、クモハ43810になりました。そして身延線も62系[Ⅱ]に追われて、大糸線で最後の活躍をしていました。

     サハ45004
サハ45004
 優等車の面影を残す、ゆったりとした窓配置の車輛です。元をたどれば横須賀線を電車化する際に作られた32系の二等付随車サロ45004、1930(昭和5)年に製造された省電初の20m車です。横須賀に海軍の軍港があったため、全13輛中5輛は戦時中も格下げされることなく、二等車の地位を守り続けました。その後、身延線に転出する際に格下げされましたが、一等(旧二等)車時代の車内設備はそのまま残されていて、乗り得な車輛でした。大糸線にサハ45は3輛(45004、45005、45007)いましたが、プレスドアの窓の形状から、この車輛は45004とわかります。

     クモハ54109
クモハ54109
 陸前原ノ町からやって来た車で、仙石線仕様の押込型通風器が特徴です。仙石線から大糸線にやって来たクモハ54は3輛(54005、54101、54109)いましたが、シル・ヘッダー付きは54109だけでした。出自は1941(昭和16)年製の三等電動車、モハ60033です。戦後クロスシートに改造されてモハ54109となりました。長く関西で活躍していましたが、後に仙石線に転用された際に押込型通風器に改造されました。オリジナルの51系(51、54、68)は扉間6枚窓ですが、ロングシートの40系(40、41、55、60)から改造された車輛は扉間5枚窓なのが特徴です。

     クハ68001        
クハ68001
 いかにも改造車然とした複雑な窓配置ですが、出自は1933(昭和8)年に製造された関西緩行線用の二・三等制御車、クロハ59002です。その後、関西緩行線の二等車廃止によって3扉化されてクハ68022、戦時中にロングシート化されてクハ55136、戦後に再びクロスシート化されてクハ68001[Ⅱ]となりました。三扉化改造時に、後部扉の戸袋窓が550mmに縮小されているのが特徴です。クハ68は戦時中に全てクハ55に改造されたため、オリジナルの68001は、55115を経て戦後は68024[Ⅱ]となり、クロハ59からの改造車の方が若番を名乗ることになりました。

 こんな多士済々な車輛たちが、1本の列車に編成されて走っていたのですから、それは楽しい時代のローカル線でした。

(1979.8.6 大糸線 南豊科-中萱 Oito line Minamitoyoshina - Nakagaya)